これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年8月29日「つまずきを越えて」(マタイによる福音書26章31~35節)

 前回、過越の食事が終りました。そこで主イエスは、弟子たちと共に讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ向かいます。ゲツセマネへ行くのでしょう。そのとき、弟子たちのつまずきを予告なさいます。31節です。「今夜」ですから、本当に間近なことを予告なさいます。しかも、つまずきだけではなくて、その後のことをも予告なさいます。32節です。弟子たちは、つまずいたからといって、信仰をなくしてしまうのではありません。復活の主イエスに出会って、再び歩みだします。
 しかし復活の予告などないかのように、ペトロは勇ましく言います、33節です。そこで主イエスは更に具体的に語ります。34節です。実際、その通りになることを私達は知っています。ペトロは、他の弟子たちのように完全に逃げ出すのではなくて、こっそり大祭司の中庭までついていきます。だからこそそこで、主イエスを否定することになります。ペトロは自分の信仰が命懸けであることを述べます。35節前半です。事実、このときまでペトロは真剣に主イエスについてきました。実際にその場面になるまで、主イエスと共に死ぬ覚悟だったでしょう。更にこれはペトロだけの事柄ではありません。35節後半から分かるように、皆同じように言います。しかし現実には、主イエスの逮捕の場面で、皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ出します。
 私達はこの記事から何を学ぶのでしょうか。まず第一に、「私(たち)の信仰」の弱さ、小ささ、不確かさです。私もまた、もしも迫害の時代がきて、信仰を生きることが命懸けのことになるならば、自分の命を差し出す覚悟はできています。しかし現実にそうなったときに、どのように行動できるかは、分かりません。
 ですから第二に、「私の信仰」ではだめで、ただ「主イエスの信仰」を生きることが大切です。弟子たちは逮捕の時には逃げ出しました。しかしその後、多くの弟子たちがたとえ殺されることになっても信仰を生き抜きました。その信仰は、もはや、「私の信仰」ではなくて「主イエスの信仰」です。「自分の信仰」の小ささ・弱さに気づくからこそ、ただ主イエスに頼る他ない。この信仰は、強く固く折れることはありません。
 そしてたとえ、逃げ出す・信仰が折れてしまうようなことがあったとしても、そのような弱い私達を招き続けておられる主イエスに目を止めるならば、また新しい信仰の道を歩みだすことができます。