これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年1月16日「誰がアブラハムの子か」(ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節)

 今日の聖書箇所は、前回最後の6節からきています。アブラハムは神を信じた、そのことで彼は義と認められました。するとどうなるのか。
 7節です。誰がアブラハムの子かということが問題になっています。もともとヘブライ語の「子」は様々な意味があります(例えば光の子、など)。ここでは、子孫、後を継ぐ者という意味でしょう。当時多くのユダヤ人にとっては、自分たちは血縁においてアブラハムの子孫だという誇りがありました。それに対して、パウロはいいます。8節は、旧約聖書から引用して(創世記12・3、18・18)、血筋ではなくて、信仰こそがアブラハムの子の要件だと語ります。9節のように、信仰こそが、私達信じる者をアブラハムの子とします。
 10~12節で、律法、律法の呪いについてパウロは語ります。まず10節では律法を行う者は、律法を全て行う責任があるのだといいます(旧約聖書申命記27章26節を引用して)。だからみな、呪われています。律法によっては誰も神の御前で義とされません(11節)。
 そして13節です。木にかけられて、キリストは私達のために呪いとなってくださいました。そのようにして、私達は、律法の呪いから贖い出されました。その目的は、14節です。アブラハムの祝福は、ユダヤ人にのみとどまるものではなくて、キリストにおいて私達異邦人に及びます。更に、信仰によって、神の「霊」を受けることになります。もしも、信仰によってはじめた信仰生活を律法によって完成しようとするならば、それは信仰において与えられた霊の恵みを台無しにしてしまうことになります。ただ、信仰によって、恵みによって、歩みましょう。