これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年3月27日「ただ約束によって」(ガラテヤの信徒への手紙3章15~20節)

 パウロはまず、分かりやすく説明すると申します。15節前半ですね。しかし私達からみて、ここのパウロの説明が分かりやすいかどうかは、微妙なところです。まずパウロは、世俗の遺言(元のギリシャ語で遺言と約束・契約は同じ言葉)の話をします。15節後半です。
 そして16節で、パウロは「子孫」とは(単数形なので)多くの子孫のことではなくて、ただキリストお一人を指すといいます。そして19節の「あの子孫」に繋がります。パウロが17節から論じているのは、約束よりも430年後(当時の数え方です)に与えられた律法が、神の恵みの約束を無効にすることはありえないということです。17~20節です。人間の遺言が後から他の人によって変えられないように、アブラハムに与えられた神の恵みの約束は、律法によって無効になることはない。そうなると、律法の意義もまた新しく定義されなければならなくなります。19節後半です。ポイントは二つあります。まず第一に、キリストまでの間、人間の違反を明らかにするために律法はあるのだといいます。今一つのポイントは、アブラハムへの約束と異なり、律法は、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたことです。この箇所の解釈は幾つかあるのですが、大切なことは、最初の約束、神の「信仰によって義とする」という恵みの約束が、神から直接与えられたのに対して、律法は間接的なものだということです。
 パウロは、ここでも信仰と律法を対比して、あなたは信仰によって生きるのか、律法によって生きるのかと迫るのです。「律法」といいますと、私達には関係がないかのようですが、この世界で、私達に対して「こうあるべきだ」と迫ってくるすべてのものを私達は信仰のゆえに拒むことができます。