これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年4月3日「養育係」(ガラテヤの信徒への手紙3章21~25節)

 「養育係」というのは、私達の文化にはあまりなじみがないので、分かりにくいかもしれません。パウロは前回までの箇所で、律法ではなくて約束によって、ということを丁寧に述べてきました。そうすると、当然出てくる疑問として、では律法とは何の意味があるのかという問いがあります。前回19節から、「律法とはいったい何か」という問いにパウロは答えようとしました。それは、キリストまでの間、私達人間の違反を明らかにするためでした。
 そうなりますと、そもそも律法は神の約束に反するのか、という問いが起こります。21節です。真面目なユダヤ人、以前パウロもそうであったようなユダヤ人は、律法を守ること・行うことによって、義とされる、と、信じていました。しかしパウロはキリストと出会って、それは誤りであって、人を生かすことができる律法は与えられていないと自覚します。それゆえ、22節です。ただ罪の支配下に閉じ込めただけだとすると、それはずいぶんひどい話です。が、決してそうではなくて、神の約束が与えられるため、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるためでした。
 すると、律法とは何なのか。まず、信仰が現れる前、23節です。私達を監視し、閉じ込める存在として律法があります。まさに、罪の支配下に閉じ込めています。これをパウロは「養育係」と表現します。24節ですね。養育係というは、奴隷の仕事で、自由人の子どもが大きくなるまで、責任をもって育てます。そこでは、体罰もあります。自由人の子どもが成長して、まっとうな大人になるのを助けるために、子どもである間、必要な躾け、教育をします。しかしそれは、「私達が信仰によって義とされるため」です。
 キリストへの信仰が現れたので、もはや、私達は養育係の下にはいません。25節です。私達は、律法と係わりの深い文化ではないので、少し分かりづらいかもしれません。しかし、この世界の様々な「常識」や「同調圧力」はもはや、私達には直接関係のあるものではなくなりました。キリストにおいて与えられた、この私達の自由をきちんと生き抜きましょう。