これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年4月10日「キリストを着て」(ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節)

 今日の聖書箇所、特に28節前半は、この手紙の中でも一番よく知られた箇所ではないでしょうか。28節をみましょう。まず様々な違いがない(ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由な身分の者、男と女)ことの根拠は、キリスト・イエスにおいて一つだからです。キリストにおいて一つであることの前には、あらゆる違いはなくなります。意味を失います。その文脈は、まず、私達は神の子です。26節です。それは、信仰によって、キリスト・イエスにあって、のことです。「信仰によって」ですから、前回の文脈で申しますと、もはや養育係の下にはありません。キリストに結ばれて、私達は自由な神の子です。27節です。それは、洗礼を受けることによって起こります。キリストを着るから、私達は一つであり、差別はなくなります。
 20節のように、アブラハムの子孫、約束による相続人です。もはや律法とか、ユダヤ人とかいうことをこえて、私達は相続人です。
 しかし幾つかの問題があります。まず第一に、それにもかかわらず、差別・違いがあります。差別をなさる方々がよくいうのは、「これは差別ではない、区別だ」というものです。奴隷制度を振り返るだけでも、多くの差別が、ただ人間の罪によって存在するだけであること、本質的なものではないことが分かります。男女差別もそうです。多くの男女の間の根本的な差異だと思われていたものが、実は単なる思い込みであって、本質ではないことが分かっています。人類の歴史は、人間の罪の結果として存在する差別をなくしていく戦いの歴史でした。
 しかしそれでは第二に、まだ差別があるこの社会で、私達はどう振る舞えばよいのでしょうか。すべての差別をここでパウロが語っている本源的な平等によって、捨象することはできません。もしそうすれば、現実離れした理想主義者とみなされるでしょう。罪の現実世界と神の理想との間で、私達はこの世界を少しでもよくしていくために自分ができることを誠実にしていきます。これが私達キリスト者の使命です。