これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年12月13日「七の七十倍までも」(マタイによる福音書18章21~35節)

 今日の主イエスの例え話は、ペトロの問いをきっかけとしています。21節です。「仏の顔も三度まで」などといいますが、当時のユダヤでは、三回までは赦しなさいというのが一般的であったようです。ペトロは、主イエスは普通と違うので、一般に言われていることの倍に一回足して、七回にします。かなり多い数を言ったつもりでしょう。これに対して主イエスは、答えます。22節です。これは、申し上げるまでもなく、「490回は許せ、そして491回目に赦さないで一気に報復しなさい」という意味ではありません。赦すことに限界があってはならない、赦し続けなさい、ということです。
 そして例え話を語られます。23~35節です。子どもでも分かる、分かりやすい話です。この王、主君に負債を赦された家来に対して、僅か百デナリオンを赦さなかったのは、当然だ、よく分かる、という人は少ないのではないでしょうか。なぜ自分が途方もない借金を赦してもらったのに、僅かばかりの借金さえ赦さないのか(そして牢に入れてしまっては、稼ぐこともできません)。とんでもない家来だと、多くの方は思うでしょうし、31節の仲間たちの心を痛める気持ちは、とてもよく分かるのではないでしょうか。
 この例えの意味は、明らかです。神様と私達との関係において、私達は途方もない負い目(借金、罪)を赦して頂きました。それにも係わらず、私達が仲間の罪を赦さないとしたら、この家来と同じことをしています。主の祈りで、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私達は祈ります。この祈りを祈る根拠・理由は、私達が神様から途方もなく赦されているという事実です。
 しかし更に、この祈りこそ、主の祈りの中で、最も躓きの多い祈りです。(建前・理屈としては赦すべきだと分かるのだけれども)「どうしても赦せない」という苦しみを多くの方々が体験しています。「赦せない」限り、私達はその出来事から自由になれません。そのとき、私達はこの家来と同じ愚かさを体験しつつも、神が主イエスの十字架によってなして下さった私達への赦しをより深く悟ることができるように、神に祈り求めることができるのではないでしょうか。アドベントの今、主イエスの降誕に備えて、自分の「赦すことができない罪」をも赦して下さる神の愛に生きましょう。