これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年12月6日「二人または三人が」(マタイによる福音書18章15~20節)

 今日の聖書箇所前半で述べられていることは、戒規の元になった主イエスの教えです。15~17節です。今日は三つのことだけを申しましょう。まず第一に、主イエス、そして初代教会は、罪の問題を本当に真剣に捉えていました。諸外国の教会は知りませんが、私達日本の教会はどうもこの点に、弱点があるように思います。たとえ自分ではなくて他者の罪の問題であっても、教会がキリストを中心とする信仰共同体である以上、その罪の問題は自分自身の問題です。この点の自覚が乏しいのではないでしょうか。第二に、戒規が問題になるのは、教会の中の争いを強い側の論理によって解決するのに用いられているように思います(三里塚問題など)。明治時代などには、本来の意味で(その全てが正しい執行であったとは言えないにしても)行われていたものが、変質し、更にはフツウは自分たちの弱さや罪に省みてほぼ行われなくなりながら、争いのときには用いられているという悲しい現実があります。そして最後に、17節の「異邦人か徴税人」に注目します。これは、ユダヤ人的な理解では、もはや共同体から排除されるべきもの、係わるべきでないものとして見るということです。しかし主イエスご自身はどうだったでしょう。ファリサイ派などの模範的な人々から見捨てられていた罪人や徴税人と共に食事をし、この人々を救うために自分は来たのだと仰います。私達も切り捨てるのではなくて、この主イエスに倣うことが求められているのではないでしょうか。
 後半(18~20節)にも、天国の鍵や願い事のことなど、幾つも大切なことがありますが、今日は一点に集中します。二人または三人がキリストの名によって集まることです。私達が人数がどうであれ、キリストの体なる教会として歩むことができるのも、罪の問題(それは永遠の命を失うことなりかねない、実に大切な問題です)に、自分たちの弱さや罪の深さにも係わらず向き合うことができるのも、この事実があるからです。主イエスがたとえ目に見えなくてもここに確かにおられる、このことだけが、私達教会の根拠・希望・確かさです。