これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年6月26日「自分の重荷を担って」(ガラテヤの信徒への手紙6章1~5節)

 前回は、霊の導きに従って歩むこと、そのようにして前進することが勧められていました。今日の箇所では、それが具体的にどのようなものになるのかが、示されています。まず、1節です。正しい道に立ち返らせる、これはかなり難しいことではないでしょうか。私達は、兄弟が罪に陥ったとき、多くの場合、見て見ぬふりをしてしまいます。なかったことして、済ませてしまいます。たとえそうではなくても、表立って、または裏で(陰口のようにして)非難します。最近のメディアの傾向として、私自身とても危惧していることは、皆で誰かを非難して溜飲を下げるような傾向です。そして実は私達自身の中にもそのような傾向があるのではないでしょうか。パウロが勧めるのは、なかったことにしたり、非難したりすることではなくて、正しい道に立ち返らせることです。現実には難しいのですが、私達自身がそういう志をもって信仰の仲間を受け止めることです。そして少なくとも自分が誘惑されないように注意します。
 そこで起こることは、互いに重荷を担うことです。2節です。律法主義者は、(ファリサイ派の人々のように)極論すれば、他者のことはどうでもよい、自分の救いだけが大切です(救いには確かにそういう究極的な問題もありますが)。それに対して、キリストの律法は、互いに愛し合うことが重要ですから、互いに重荷を担うことになります。
 次の3・4節は、少し分かりにくいかもしれません。前回の「うぬぼれて」(26節)にも通じるものがあります。正しい自己反省が、霊の導きの中で可能になるはずだということです。
 最後に、5節です。私達は、他者の重荷を負うべき責任があります。しかしながら、それ以前に、他の方々の重荷以前に、自分の担うべき重荷があります。それは人それぞれ異なるのであって、こうだと決めつけることはできません。各自の真剣な祈りの中で、聖霊によって示されます。さあ新しい一週間、自分の重荷を担う、それゆえ与えられる感謝と喜びを生きましょう。