これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年5月29日「愛の実践を伴う信仰こそ」(ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節)

 前回、パウロは、アレゴリカルな解釈の結論として、私達教会は、自由な身の女から生まれた子どもです。だから、二度と奴隷に戻らないで、自由を生き抜くこと、そのために「しっかりする」ことが求められていました。
 今日の箇所で、パウロは断言します。割礼・律法と福音・キリストとは二律背反であって、二者択一であって決して相容れないものです。あれもこれもは決してなく、常にあれかこれかの関係です。2~4節です。パウロに敵対する人々の主張はこうです。確かにイエス・キリストによる福音は大切だ。しかしそれだけではなくて、割礼を受けてユダヤ人になることも大切なのだ。それに対して、パウロは、割礼を受ける人は、律法全体を行う義務があるのだと言います。そして律法の全てを全うすることはできませんから、キリストとは縁もゆかりもない者になり、いただいたはずの恵みも失います。
 そうして、私達は何を待ち望んでいるのでしょうか。5節です。これは、終末へ向けての希望です。最後のとき、私達の希望は実現します。ここには、「既に」と「未だ」の緊張関係があります。私達は「既に」キリストの贖いによって義とされていると同時に、その「未だ」完成していないこの義の完成を待ち望み続けます。
 そのような私達にとって、もはや割礼の有無は問題ではありません。愛の実践を伴う信仰が大切です。6節です。律法を行うことで義を得ようとする信仰には、(聖書のファリサイ派の人々からも分かりますように)愛の実践を伴いません。ただ、何の功しなく救いが与えられていることを知る私達の信仰にこそ、愛の実践が伴います。そのことが実現できているかどうかは、確かに不透明ですが、少なくとも私達はそのような志をもって信仰生活、教会生活を歩みます。