これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年5月22日「自由を得させるために」(ガラテヤの信徒への手紙4章28~5章1節)

 前回は、現代の私達には少し分かりづらいかもしれない、アレゴリカルな解釈でした。今日はその結論の部分です。28節です。教会は、従来のイスラエルが奴隷の子であるのと異なり、約束の子です。次に、29・30節です。イシュマエルとイサクの関係については、それが書かれている創世記の箇所の解釈によって、二通りの読み方があります。一つは、イシュマエルがイサクをいじめていたというものです(パウロはその立場に立っていますし、伝統的なユダヤ教の解釈もそうです)。いま一つは、仲良く遊んでいたという解釈です。ただ、いずれよせよ、ハガルとイシュマエルを追い出すのは、神の命令・意志でした。そして教会は、パウロのしているアレゴリカルな解釈では、自由な身の女から生まれた子どもです。31節です。
 それですから、5章1節です。何のために、主イエスは、十字架の死を死んで、復活なさった(神によって復活させられた)のでしょうか。それは、私達に自由を得させるためでした。それにも関わらず、私達は、あまりにも弱く罪の残滓をもっています。だから、すぐに奴隷の軛につながれたがってしまいます。だからこそ、しっかりすることが求められています。どのようにして「しっかりする」ことができるのでしょうか。信仰の原点、十字架による贖いに立ち返り続けることです。私達を自由のみにしてくださった十字架に思いを馳せ続けることです。主イエスが十字架の死をたえしのんでまで、私達に自由を得させてくださったことを大切に生きることです。さあ、新しい一週間、主イエスによって与えられた私達の自由を生き抜きましょう。