これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年5月15日「二人の女、二つの契約」(ガラテヤの信徒への手紙4章21~27節)

 前回は、自分の内にキリストが形作られることを願い求めることの大切さをみました。パウロは、自分がガラテヤに行ったときのことを思い出させて、「律法と割礼が大切だ」という考え方は、パウロの伝えた福音を台無しにするのだと主張します。
 今日の箇所では、二人の女の例えを用いて、この議論を補強します。しかしここでは、例えのアレゴリカルな(寓喩的な)解釈をしています。これは現代では、殆ど用いられなくなった解釈です。私達には難しいといえるでしょう。この解釈では、これは何、あれは何と、例えに出てくる一つひとつを現実のものに当てはめていきます。中世までは、こういう解釈の方が普通でした。しかしこのやり方では、とても恣意的(自分勝手な)解釈ができてしまうので、近代以降は用いられなくなりました。
 今日の箇所で、パウロは二人の女、サラとハガルについて、このような解釈をしています。この解釈が正しいかどうかを検討してみるよりも、パウロが何を語ろうとしているのかに集中しましょう。ハガルのことは、創世記に出てきますが、神様から子どもができて砂の数、星の数のように子孫が増えるという約束にもかかわらず、奴隷に生ませた子どもを女主人が膝の上に抱くと、自分の子どもとして扱うことができるという当時の風習に基づいて、奴隷女のハガルから子孫を得ようとしました。その後、約束の子どもイサクが生まれます。24~27節です。ハガル、シナイ山、今のエルサレム、という奴隷の系譜と、天のエルサレム、教会という自由な女、サラの系譜です。私達は、自由な女、サラの系譜に属するのだから、奴隷の女の系譜に逆戻りする必要はないのだと、パウロはいいます。私達は、ユダヤ人ではないので、古いエルサレムのこと自体、よく分からないところがありますが、かつて私達が何かの奴隷であった、その身分に戻ってはならないのです。
 さあ新しい一週間、私達は自由な身分の者としての歩みを形作っていきましょう。そのためにイエス・キリストはいらして、十字架に死んでくださったのですから。