これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年12月23日「神の恵みが現れた理由」(テトスへの手紙2章11~15節)

 

 クリスマスおめでとうございます。
 今日はフィリピの講解説教をお休みして、聖書日課のクリスマスの聖書箇所(クリスマスによく読まれる聖書箇所)です。11節。この恵みとは、神の子イエス・キリストを与えられたことにほかなりません。「すべての人々」がその対象です。しかし残念ながら、この恵みがまだ与えられていないかのように生きる方々もいます。この恵みが、「わたし」にも与えられているのだと分かったときに、人は洗礼を受けてキリスト者としての歩みをはじめます。この恵みがもたらす救いは、単に(今生きている現実とは関係なく)天国へ行くことができる切符ではありません。この恵みは、二つのことを教えます。一つ目は、12節。この世界での生き方を教えます。これは、ユダヤ教や当時のローマ世界でも通用するような一般的なものです。しかしそれら他のものと決定的に異なる点があります。それは私たちが自分の力で努力するという話ではなくて、その恵みがそのように導いてくれることです。だから、14節の主語は、私たちではなくてキリストです。二つ目、13節。終末・再臨を待ち望み続ける生活です。そもそも何のためにキリストはわたしたちのためにご自身を献げられたのでしょうか。14節。キリストが聖霊によって清めてくださるのであって、私たちが努力して清くなるのではありません。ここを間違えると、ファリサイ派の人々、律法主義者の人々と同じ過ちを犯します。たとえ、テトスがまだ年若いとしても、きちんとこの福音を伝え続ける使命があります。15節。さあ私たちはクリスマス、主の御降誕を十字架・復活へと繋がる、この救いの恵みのはじまりとして喜び祝いましょう。

2018年12月16日「しっかりと立て」(フィリピの信徒への手紙4章1節)

<phttps://www.dropbox.com/s/?dl=0> 今日から4章(最後の章)に入りますが、多くの方がそう捉えるように、今日の1節までで、3章からはじまった勧告が終わります(新共同訳聖書もそうです)。パウロは、十字架に敵対して歩んでいる人々の最後が滅びであって、あなたがたはそうならないように気をつけなさいと勧めてきました。どうしたらよいのでしょうか。自分たちはもう完成しているのだなどとうぬぼれないで、途上にある者、「既に」と「未だ」の間にあって、目標を目指してひたすら走ることです。本国は天にあり(20節)という自覚をもって、旅人として21節のような希望を生きることです。しかしそれは、容易なことではありません。まず外からの迫害や誘惑があります。更に(パウロの当時は)教会の中にも、「十字架のみ」を否定しようとする人々がいます(否、二千年の間、そういう力との戦いがずっとありました)。私たち自身の心の中に、悪の力は働きかけて、一筋に信仰に生きることから、外れる様に仕向けます。
 だからパウロは、この箇所の最後に、「しっかり立ちなさい」と勧めます。今日のこの箇所について、三つのことだけをみましょう。まず第一に、パウロは、フィリピの教会の人々に対して、率直な愛情を吐露しています。私たちは愛する者が滅びることを願いはしません。何とか救われてほしい、だから、パウロは勧めてきました。第二に、「冠」という言葉から分かる、パウロの救いの理解、救いの連帯性です。第三に、私たちがしっかりと立つことができるのは、(既に今まで丁寧にみてきましたように)ひたすら「主にあって」です。私たちが自分の無理な努力によって、しっかりと立つことなどできません。ただ主イエス・キリストの中で、ただ主に従う歩みの中で、わたしたちは神によってしっかりと立たせられます(1章27節参照)。

2018年12月9日「本国は天にあり」(フィリピの信徒への手紙3章18~21節)

 

 前回はパウロが「わたしに倣う者となりなさい」と勧める箇所でした。パウロは今獄中にいます。フィリピの教会の人々の所へ行って励ましたいのだけれども、それは、できません。だから、エパフロディトやテモテを送ります。丁寧に手紙を認めます。パウロが敵対している人々は、主イエスの十字架だけでは不十分であって、他にも必要なものが色々あるのだと主張していました。それは、「十字架のみ」を否定することになりますから、「キリストの十字架に敵対」することになります。そういう人々に流されないで、しっかりと立つために、パウロは自分に倣い、自分と同じように(自分を模範として)歩む人々に目を向けるように勧めます。十字架に敵対して歩んでいる者が多いからです。18・19節。パウロは、獄中にあって、(明日には死刑で殺されるかもしれない)自分のためではなくて、フィリピの教会の人々のために涙を流します。この世における命を失うことよりも、永遠の命を失って滅びることの方が悲惨です。そういう人々と同じになってはなりません。
 自分たちがどういう者であるかをパウロは今一度確認します。20節。私たちは、本国・国籍が天にあります。だから今はひたすら、待ち望んで生きます。アドベントの一つの意味は、この待ち望むことを今一度学び直すことにあります。勿論今既に、この礼拝において、神の国の祝宴の先取りをしているのですが、それでも今はまだ、終末・再臨よりも前の時です(「既に」と「未だ」を思い起こして下さい)。地上での私たちの生・命は、終末・再臨を待ちつつ、旅人として生きる命です。だから私たちには、この世界のどんな事柄に対しても、究極以前のもの対する冷静さがあります。そして私たちは、約束を生きます。21節。この栄光の体を待ち望みつつ、私たちは「本国は天に」ある者として、どんな状況にあっても、軽やかに喜んで生きましょう。

2018年12月2日「私に倣いなさい」(フィリピの信徒への手紙3章17節)

 今日の聖書箇所は、17節の一節だけです。この言葉はきちんと説明をしなければ、分かりにくい言葉であろうと思うからです。謙遜が美徳とされるこの日本社会で、随分と傲慢なことをパウロは言っていると、誤解されかねません。パウロは自信に溢れているのだなあという感想をもつことになりかねません。しかしパウロは、前回までの箇所で、自分は完全な者となっているのではないと言明しています。キリスト者は、終末の完成まで、「既に」と「未だ」の間を生きる、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る。そういうパウロだからこそ、「私に倣う者となりなさい」と勧めます。敵対者たちが「自分たちはもう完成している」と言い、その自分たちに倣う者となることで、あなたも完成した存在になれと勧めるのに対して、パウロは真逆です。自分はまだ完成してはいないけれども、目標を目指してひたすら走っている、あなたがたもそのようであって欲しい、というのです。そこで倣うべきパウロは、別の手紙でこう語ります、一テサロニケ1章6節。更に、一コリント11章1節。
 私達は、私達キリスト者の生きる姿として、「キリストに倣って」があることを知っています。しかしそれは、一歩間違うととても抽象的なことになってしまいます。だから、身近におられる信仰の先達方を通して、キリストに倣うことを学んでいきます。勿論、CSルイスが語ったような危険もあるでしょう。私達は罪赦された罪人にすぎないのですから。しかしそれでもなお、私達の信仰が生きて働く具体的なものであるためには、信仰の先達に倣うことが大切です。そしてまた、私達は、パウロと共に、「私に倣いなさい」と言える、自分の中から出てくる自信では決してなくて、ただキリストのゆえにそう述べることができる私達でありたいものです。

2018年11月25日「目標を目指して」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

 前回は同じ聖書箇所で、12節の最後、「キリスト・イエスに捕らえられて」に集中しました。私達が、「既に」と「未だ」の間にあって生きることができるのは、「キリストに捕らえられ」たという「既に」があるからです。だから13・14節。「未だ」の目標を目指してひたすら走ります。ただパウロは自分の考えを押しつけようとはしません。15節前半なのだけれども、15節後半です。自分とは異なる別の考えがあったとしても、神様ご自身が明らかにしてくださるのだとパウロは、神に信頼します。ただパウロは、「後ろのものを忘れ(13節)」と述べました。これは、過去のことはどうでも良い、全て忘れてしまって、ということではありません。だから、16節。どういう歩みをしてきて、今自分の信仰がどうであるのか、その到達したところに基づいて、私達は進む、そこにしっかりと立つべきです。では、「後ろのものを忘れ」とは、何を忘れることでしょうか。それは、例えばパウロの場合には二つのことが考えられます。まず第一にキリスト者・教会を迫害していたような、ユダヤ人としては模範的な?歩みをしていた頃のことです。パウロがもはや、塵あくた、損失とみなしているものに、もはや固執しないことです。更にキリスト者にされてから、今日に至るまでの自分のしてきた伝道活動のことです。事実パウロは、もはや自分が生きるのではない、自分の内にキリストが生きるのだと述べます。また、自分がなしたのではない、聖霊によって神がしてくださったのだ、と語ります。これは私達がキリスト者として、自分自身の体験・実感としてよく分かることではないでしょうか。私達は、パウロの敵対者たちが主張するような「完全」とはほど遠い存在です。それどころか、未だに自分の過去の様々なことを「後ろのものを忘れ」きれない私達です。しかし前のものに全身を向けつつ、目標を目指して生きることは、誰にでもいつからでもできるのではないでしょうか。

2018年11月18日「キリストに捕らえられて」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

Download
 前回申し上げましたように、パウロが戦う相手は、ユダヤ人キリスト者です。彼らは、律法遵守や割礼を大切なこととして教えておりました。更に、自分たちは既に完成しているという主張が、彼らの特徴です。それに対して、パウロや私達は、「既に」と「未だ」の間にあって生きます。「既に」キリストを(更には私達を)復活させる神の力を知っているけれども、「未だ」復活には達していない、終末の完成の時を目指して生きます。だからパウロは、11節。
 そのことを更に丁寧にパウロは論じていきます。12節。パウロは、敵対者たちのように「自分は既に完成している」などとうぬぼれません。むしろ捕らえようとして努めています。その根拠が、「キリスト・イエスに捕らえられている」ことです。パウロ自身は、ダマスコにキリスト者を迫害しようとして向かう途中でキリストと出会って回心します。そのときのことを「キリストに捕らえられ」たと述べます。洗礼を受けた方々、キリスト者として生きておられる皆さんにお話をうかがいますと、多くの方がこの「キリストに捕らえられ」たという自覚をもっておられます。私達が先なのではなくて、神・キリストが先に私達を捕らえて下さったから、私達もまた捕らえようと努めます。「既に」キリストに捕らえられている私達が、「未だ」来てはいない終末、私達の救いの完成を目指して努める、これが信仰の姿勢です。神が私達を愛して下さったから、私達は神と隣人とを愛することができます(ヨハネの第一の手紙4章10節)。そのような私達の歩みは、不完全で不十分なものでしょう。それでよいのです。神がキリストがわたしを捕らえて下さっているという事実が先にあります。この確かな「既に」があるので私達は、(自分自身の不完全さに辟易しつつも)確信をもって、「未だ」の将来へ向けて今を生きます。

2018年11月11日「復活の力を知って」(フィリピの信徒への手紙3章8~11節)

Download

 今日は召天者記念礼拝です。私達は現在フィリピの信徒への手紙を講解で読んでいます。丁度今日の聖書箇所は復活が出てきますので、特別な聖書箇所を選ぶのではなくて、講解説教を続けます。ただ、前回は9節まででしたが、最後の二節だけでは分かりにくいので、8節から読みました。3章からのパウロの論議は、律法遵守や割礼を大切だと主張するユダヤ人キリスト者に対抗するものです。彼らの特徴の一つは、自分たちはもはや完全な知識をもっていて、完成しているという主張です。パウロが復活について一番詳しく書いているのはコリントの信徒への手紙の最後の方ですが、今日の箇所は、福音を無にする(キリスト以前に律法遵守と割礼が必要なのだとする)ユダヤ人キリスト者との対決を通して、復活についてのパウロの意見がよく出ています。
 前回パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、すべての価値が逆転することを語りました。そこではもはや、自分が努力して到達する「義」ではなくて、ただ信仰において与えられる義があります(8・9節)。パウロは、自分はキリストを既に知っていると語りますが、同時に完成はまだなのだと語ります。既に十字架と復活の恵みを知ることと、完成は未だしてはいないのだ、この「既に」と「未だ」の間にこそ、私達の信仰の特徴があります。敵対者たちのように「既に完成している」というのは偽りです。パウロの「知ることのすばらしさ」は、更に「キリストとその復活の力」を知ることのすばらしさです。10節は現在のこと、11節は将来の希望です。10節。復活は主イエスが自分の力で復活なさったのではなくて、神が主イエスを復活させました。だから復活の力とは、神の力です。この力を知るとき、私達は苦しみを耐えることができます。それどころか、この苦しみにおいて主イエスの十字架の死の姿にあやかり、より深く十字架と復活の信仰を生きる者とされます。私達の完成・救い・復活は、まだです。11節。ただ神の約束して下さる復活を目当てに今を真剣に生きます。