これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年2月23日「新しい革袋に」(マタイによる福音書9章14~17節)

 前回、主イエスは弟子たちばかりでなく、罪人や徴税人と共に食事をしていました。そして、ファリサイ派の人々の疑問に答える仕方で、自分が誰を招くために来たのか、語られました。今日の聖書箇所最初の「そのころ(そのとき)」は、この食事の席のことでしょう。そして食事の席だからこそ、断食が問題になるのです。14節。山上の説教で学びましたように、当時のユダヤにおいては、施し、祈り、断食の三つが、徳と考えられていました。ファリサイ派や洗礼者ヨハネのグループが断食をしているのに対して、なぜ主イエスとその弟子たちは断食しないのだろう。当然の疑問でしょう。主イエスは答えます、15節。断食をしないのは、祭りや祝いの時です。日常的には安息日です。婚礼の祝いの宴の時には、断食しません。主イエスが共におられるのは、婚礼の宴です。だから、断食をしません。奪い去られるには、十字架と昇天の二つの解釈があります。しかしマタイの最も大切な基本的なメッセージは、「主が共におられる」ですから、十字架でしょう。勿論私たちは、自由ですから、断食をする自由もありますが、基本的には、主イエスが共におられるので、必要ありません。
 更に主イエスは、二つのたとえを語られます。継ぎ当てと革袋・ぶどう酒のたとえです。16・17節。主イエスが来てくださり、今も共にいてくださることは、決定的に新しいことがはじまったのです。だから、以前と同じではだめです。新しい革袋が必要です。教会は、この意味で常に新しい(ニューではなくて、フレッシュ)。私たちの信仰は本当に常に新しいものになっているでしょうか。更に、教会はそのような新しい信仰を入れる革袋として新しいでしょうか。このことが問われています。

2020年2月16日「罪人を招くために」(マタイによる福音書9章9~13節)

 前回は、中風の人の記事を通して、罪を赦す権威をみました。主イエスはその場所をたち、マタイに声を掛けます。9節。マルコやルカでは、レビです。なぜ名前が異なるのでしょうか。二つの可能性(二つの名前の同一人物、出来事が別々にあった)は蓋然性が低いといわれます。マタイ福音書記者が、名前を変えたと考えるのが自然です。ではなぜ変えたのでしょう。これも幾つかの可能性がありますが、蓋然性が高いのは、十二使徒の一人と同定したかったというものです。かつて、このマタイが、マタイ福音書記者だと考えられていました(ギリシャ語の前に、アラム語のマタイ福音書があったのだという説も含めて)。現代では、様々な理由からその可能性は低いと考えられています。しかしこの徴税人マタイ(あまり地位は高くないと思われる)も、マタイ福音書記者も、そして私たちにも共通しているのは、主イエスに「わたしに従いなさい」と命じられて、立ち上がって従ったことです。声を掛けられてから実際に従うまでの時間や経緯は様々ですが、主イエスが主導権をもってまず声を掛けてくださり、声を掛けて頂いた私たちが従うのは、今も昔も変わりません。
 次は、食事を共にしていた時のファリサイ派の人々です。10・11節。同席しないことが、「けがれ」が移らないために基本的なことでした。声を掛けられたのは弟子たちですが、主イエスが答えます。12・13節。もしもいけにえを第一とするならば、ファリサイ派の人々のように、自分たちの「清さ」のために分け隔てすることになるでしょう。しかし主イエスは、「憐れみ」を第一とします。神が求めるのは何よりもまず、憐れみだからです(ホセア書)。そして正しい人ではなくて、罪人を招くために自分は来たのだと仰います。罪の根底にあるのは、神を否定・拒否することですが、その一つの変化形として、神の前に自分たちだけが正しくあろうとする行為(ファリサイ派の人々のように)があります。まず大切なことは、自分が主イエスの憐れみを必要とする罪人であると気が付くことです。そして私たちを招くために、主イエスは十字架に掛かられました。

2020年2月9日「権威ある者」(マタイによる福音書9章1~8節)

  •  今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方から帰ってきまして、最初の出来事です。有名な、中風の人の記事です。しかしマルコやルカと異なり、屋根に穴を開けるエピソードは省かれています。少し面倒な話をしますと、新約聖書が今の順序になっている(マタイがマルコよりも前にある)のは、マタイが先に書かれて、その要約版がマルコだと思われていたからだそうです。しかし実際は、(少し丁寧に読めば分かるのですが)マルコが先に書かれて、それもまた素材として用いて、マタイは書かれています。だから、マタイ福音書記者は、彼の視点から、大胆にマルコ福音書を要約しています。また、彼が必要だと思う加筆もしています。今日の箇所で最も大切な加筆は、最後にあります。8節。神が人間にこのような権威をお与えになった、人々は、恐れつつも、そのことで神を賛美します。罪を赦す権威です。5節の主イエスの問いは、どちらに答えることもできますが、答えてしまったとたんに何かを見落としてしまうような問いでしょう。大切なのは、主イエスが、癒す奇跡治癒者なだけではなくて、神から罪を赦す権威を与えられていることです。「教会」という私達の群れが、社会の様々なグループと決定的に異なるのは、ここで罪が赦されることです。主イエスが、目には見えなくても共におられることによって、教会では罪の赦しが宣言されます。事実神がここで罪を赦して下さいます。教会の使命は、この罪に塗れた社会で、神の罪の赦しをきちんと宣言し、伝えていくことです。教会は、「罪」を語るのではなく「罪の赦し」を語り続けます。この中風の人は、彼の信仰のゆえに、あるいは罪の告白・懺悔のゆえに、罪が赦されるのでありません。ただ、主イエスは自由に罪の赦しを宣言なさり、私達は罪が赦されてはじめて、自分の罪に気が付くのではないでしょうか。

2020年2月2日「かまわないでくれ」(マタイ8章28~34節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方です。その前、湖での嵐からも私達は様々なことを学びました。今日の箇所では、説教題を「かまわないでくれ」としました。もちろん、29節からです。しかし以前の口語訳聖書では「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの関わりがあるのです」と翻訳されていました。どちらも誤訳ではありません。今回の翻訳のほうがより適切ではあるでしょう。悪霊たちは、主イエスにかまわないで欲しい、放っておいて欲しいのです。関わりがないと言いたいのです。「その時」は終末のことですから、終末が来れば、自分たちは滅びる定めである、新しい天と地に自分たちの居場所がないことはよく分かっています。しかしせめて今は、関わらないで欲しい。終末は、主イエスの十字架と復活をもってはじまりました。しかし終末は主イエスの再臨の時まで、終りません。だから教会は「間の時」を担うのだという自覚をもっています。ここで注目したいのは、ペトロが弟子たちを代表して告白する(マタイ福音書では16章)よりもずっと前に悪霊たちは主イエスの正体、神の子を見抜いていることです。信じ従う者だけが、主イエスの正体が分かるのではありません。むしろ、敵対し滅びへ向かう者たちこそ、その恐れからでしょうか、主イエスの正体を見抜きます。そして彼らは交渉します。31節。人々の邪魔はできないにしても、生き残りたい、今はまだ滅びたくないという悪霊たちの思い。主イエスは彼らの願いを聞き届けつつ、しかし滅ぼします。32節。
 この出来事の終わりをみましょう。33・34節。この町の町中の人々は、何と悪霊たちに似ていることでしょう。なぜ「出て行ってもらいたい」のでしょうか。経済的なこともあるでしょう。しかし何よりも、神の子を受け入れません。こうして主イエスは、自分の町に帰っていかれます。私達は本当に主イエスを受け入れているでしょうか。神に従いたくないために、色々と理由をつけて、主イエスを拒否する、「かまわないでくれ」と言うのでしょうか。あなたは、問われています。

2020年1月26日「風や湖さえも」(マタイによる福音書8章23~27節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、前回の箇所とまとめて読むべきだという意見もあります。前回、主イエスの弟子として生きることの覚悟が、二つの問答から教えられていました。主イエスは枕する所もない、そういう方に従っていく覚悟です。その流れで、今日の箇所は、主イエスが嵐の中であるにも関わらず眠っておられる姿からはじまります。23・24節。嵐は、地震という言葉です。全てが揺れ動き、自分たちの命さえ危ういと感じる、そういう状況です。しかし主イエスは眠っておられます。父なる神に全てを委ねて、信頼しきって眠っておられます。しかし弟子たちは異なります。25節。皆さんはこの弟子たちの行動をどう思いますか。「嵐で危ないのだから仕方がない」でしょうか。「主イエスが眠っておられるだから、心配しなくてよい、起こす必要はなかった」のでしょうか。
 教会はしばしば船に例えられます。確かに地震・嵐のようなこの世界の中で、主イエスが共にいて下さる船です。地震・嵐のない平安・平和がここにあるのではありません。嵐はあります。しかし、主が共にいて下さるから、私達は平安を生きます。主イエスを起こす弟子たちを主イエスは叱ります。最後をまとめて、26・27節。信仰が「薄い」とは「小さい」です。私達の信仰は確かに小さいのです。しかし「小さくてよいのだ」と開き直るのではない。こんな小さい信仰しかない自分はだめだと悲観的になるのでもない。弟子たち(人々)の驚きと共に、私達はこの方に驚きつつ、たとえ自分の信仰は小さくても、自分たちと共に眠っていて下さる主イエスがおられる、私達はこの方に救われる、この事実に励まされて、日々を歩みましょう。

2020年1月19日「枕する所もない」(マタイによる福音書8章18~22節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、主イエスがそういう何かを行う場面ではなくて、二つの問答が記されています。まず、そのきっかけともなる主イエスの命令をみましょう。18節。主イエスはここではっきりと自分を取り囲んでいる群衆を退けます。彼らから離れて、向こう岸に行こうとします。この主イエスの厳しい面も私達は知っておく必要があります。
 そして一つ目の問答です。19・20節。これは厳密に考えると、問答になっていません。律法学者は、従うと宣言しただけです。だから主イエスはそれに対して、肯定的、あるいは否定的な評価をしそうなものですが、「枕する所もない」と人の子(ご自身)のことを語ります。これを否定的な返答だと捉える方もいますが、むしろ、「従う」ことの意味を直接的ではなく教えておられるとみるのがいいでしょう。主イエスの本来の居場所は、神の言葉として、神の子として、天にあります。しかしあえて、神の身分に固執することなく、地上に来てくださった。自分には枕する所もない、本来の居場所ではない地上で、人々の患いを負い、病を担って(前回の17節)、私達に救いをもたらして下さる。この主イエスに従っていくということは、自分もまた、そのように歩むということです。その覚悟があるかと問い返しておられます。
 二つ目の問答では、そのように主イエスに従うことが、命の道であることが示されます。21・22節。死んでいる者が死者を葬るとは、どういうことでしょう。ゾンビのようなことが言われているのではありません。主イエスに従って、まるで「枕する所もない」ような地上での歩みをする時に、私達は命を得ます。本当に生きます。そのように主イエスに従って本当の命を生きていない者は、(厳しい言い方になりますが)死んでいるようなものなのです。そしてそのように主イエスに従って「枕する所もない」旅人として生きる時、私達は本来私達の本国は天にあって、私達もまた実は、「枕する所もない」自分を自覚する中で、主イエスと共に本当の命を見いだします。

2020年1月12日「イザヤの預言を」(マタイによる福音書8章14~17節)

 前回から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。5~7章の山上の説教と異なり、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。それでは、福音としての意味は今までよりも薄いのかといえば、決してそんなことはありません。前回も、周辺へ来られる主イエスと、信仰の枠からはみ出した(もともと入っていなかったり、追い出されたり)方々の信仰が主イエスによって驚嘆されるという出来事がありました。今日の箇所も、単にぺトロのしゅうとめや大勢の方々がいやされたことだけではありません。特に三つのことをみていきましょう。まず第一に、16節後半です。「言葉によって」です。悪霊を追い出すのも、病人をいやすのも、言葉によるのだということです。マタイ福音書記者は、いやしを言葉と全く別のものとして分けて考えるのではなくて、主イエスのなさる業の全てを「言葉」という視点で捉えます。
 第二に、17節に描かれておりますように、主イエスの業をイザヤ書の預言の成就として捉えます。つまり単にいやしたのではなくて、「負い、担った」ということです。主イエスは、自分のほうは何も変わらないで、高い所にいて、下々にいる人々をいやしたのではありません。自身の身にその全てを担われました。ここで既にマタイ福音書記者は、十字架、更には復活を見据えて語っています。私達の場合は、更にすばらしい救いを頂いているわけですが、基本的な事柄は同じです。主イエスは単に取り去るのではなくて、自分で担っていて下さいます。
 第三に、そのような私達はどうあることが求められているでしょうか。残念ながら主イエスにいやされた多くの人々が、まるでそんなことはなかったかのように振る舞いました(主イエスの十字架の時には、「十字架につけろ」と叫ぶ側になりました)。しかしペトロのしゅうとめは、15節。もてなします。奉仕します。仕えます。私達もそうありたいものです。