これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年9月20日「人をけがすもの」(マタイによる福音書15章10~20節)

 今日の箇所は、前回の箇所と合わせて一まとまりです。きっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちの問いでした。前回の箇所では、父と母とを敬えという戒めがないがしろにされている、そこに昔の人の言い伝え(あなたがた自身の言い伝え)の最大の問題がある、そう主イエスが指摘なさる箇所でした。
 彼らの問いに対する答えとしては、今日の箇所の方がはっきりと応えています。10・11節です。当時汚れは、外から人間の中に入ってくるものだという認識が普通・常識でした。今でも多くの宗教でそういう考え方があります。それに対して主イエスは、この常識を完全にひっくり返します。主イエスのこの言明に対して、理解できない弟子たちが説明を求め(15節)、主イエスは答えます。最後の17~20節です。心から出てくる悪い行いが、人を汚します。人の心にこそ、汚れ・悪・罪はあります。ここが分からないと、外から汚れが移ると思い込み、これを防ぐことに必死になります。この根本的な思い違いを主イエスは指摘します。このような思い違いの果てにあるのが、ファリサイ派の人々の姿です。12~14節です。これはとても厳しい裁きの言葉ですが、私達教会も無関係ではありません。真面目で真剣であるからこそ、かかってしまう「正義病」では、この裁きに値するような罪がすぐに起こってしまいます。では私達はどうしたらよいのでしょう。何よりもまず、汚れが実は外から来るのではなくて、自分の心からこそ来ることを自覚することが大切です。そしてそのような私達のために、神が主イエスをこの世界に派遣して下さり、私達の汚れを清めるために決定的な奇跡の業、十字架をなしてくださった、私達が間違って驕り高ぶってしまいそうになるとき、いつもこの原点に立ち返りましょう。

2020年9月13日「神の言葉を無にする罪」(マタイによる福音書15章1~9節)

 今日の箇所は、次回の箇所と合わせて一まとまりです。今回は、一度に語るのは無理だと感じました。前半を今日、後半を次回みてみます。きっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちがやってきて、問います。1・2節です。ポイントは、「エルサレムから」です。主イエスが主に活動なさったのはガリラヤですから、都エルサレムから来るというのは、大変なことです。食事の前に手を洗うのは、私達のように衛生的な意味(コロナ対策など)ではありません。宗教的な意味です。昔の人の言い伝え(主イエスは自分の言い伝えと言い換えている、3、6節)とは、神の掟・律法を守るために必要だと考えられた細かい規定です。その中に、異邦人と触れている可能性を考えて手を洗って(しかもかなり細かく具体的な方法も定められていた)けがれを落とします。このこと自体については,次回の箇所になります。
 まず主イエスは、コルバンを用いて、彼らが、言い伝えを用いてどれほど神の言葉、律法から離れてしまっているかを指摘します。3~6節です。敬うとは、決して精神的な意味だけではありません。経済的な必要を満たすことも含まれています。それなのに、神への供え物だといえば、この義務を免除されるという言い伝えがあります。確かに、人への義務よりも神への義務のほうが優先されます。しかしそれが、言い訳になってしまい、経済的に両親を養わない根拠にされてしまいます。それを主イエスは、神の言葉を無にする罪だと指摘なさいます。それはまさに、イザヤが預言したように、偽善者のすることです。7~9節です。しかし私達は、神の言葉を無にすることなどできるでしょうか。神の言葉は、一度神が発せられたならば、むなしく消えていくことはありません。この箇所の「無にする」とは、本来私達の生きる指針となるはずの神の言葉が、私達人間の罪によって無視されることです。ファリサイ派の人々と律法学者のことだから、私達には無関係だ、などとはいえません。自分がどれほど神の言葉を無にする罪を犯しているかの自覚がないところでは、それこそ、神の言葉を無視し続けることになります。しかしそんな私達を救うために、主イエスは十字架に死んで下さった。この事実にしっかりと立つ時に、私達はこの罪から離れて生き始めることができます。

2020年9月6日「信仰の薄い者よ」(マタイによる福音書14章22~36節)

 今日は、五千人の給食の直後の記事です。主イエスは弟子たちを船出させます。22・23節です。「強いて」とあります。弟子たちの中には何人も漁師の人がいますから、湖の様子から船を出したくなかったかもしれません。しかし主イエスは彼らを行かせます。そして主イエスご自身は、一人だけで祈ります。一人で祈ることは大切です。父なる神と深い繋がりのある主イエスでさえそうですから、私達は尚更でしょう。逆風、波に悩む弟子たちに、夜明け頃主イエスは現れて、声を掛けます。24~27節です。ここまでもその先も、物語自体には分かりづらい所はありません。幽霊だと間違えるのも、恐怖のあまり叫び声をあげるのも無理からぬことでしょう。主イエスの神顕現の言葉もこの箇所にふさわしく、弟子たちを安心させたことでしょう。
 後半はペトロの申し出からはじまります。28節です。この申し出を主イエスが受け入れ、ペトロもまた湖の上を歩きます。29節です。しかしペトロは、怖くなって沈みかけます。30節です。主イエスはペトロを助けます。このときの主イエスの呼びかけ、「信仰の薄い者よ」を今回は説教題にしました。「薄い」は「小さい」です。ペトロのことから分かるように、私達の信仰が小さくても、その小ささの只中で主イエスに助けを求めて呼びかけるならば、主イエスは応えて助けてくださる。私達教会の歩みは常にそのようなものなのではないでしょうか。自分が沈みかけていることにさえ気が付かない不信仰(信仰がない状態)ではなくて、どんなに小さくてもよい(からし種一粒の信仰があれば山も動くのですから、私達の信仰はからし種一粒にも満たない小さなものです)、主イエスから与えられた信仰を生きましょう。

2020年8月30日「ヨハネの死と給食」(マタイによる福音書14章1~21節)

 今日も前回同様、二つの部分をまとめて読みます。その対比をきちんと捉えるためです。時間的な流れから言いますと、一つ目の記事と二つ目の記事は繋がっていません。1・2節から、ヘロデが洗礼者ヨハネを以前に殺していて、そのヨハネが「生き返った」方として、ヘロデはイエスをみました。しかし二つの記事にははっきりとした共通点があり、それだからこそ、対比が際立っています。
 類似しているのは、どちらも食事の席だということです。ヘロデは自分の誕生日の祝いの席です。そこで、「願うものは何でもやろう」(7節)と誓って約束します。サロメに対して、約束します(サロメという名前はどこにもでてきませんが…)。それ自体既に、驕り高ぶっている、罪を犯しています。そして王としての威厳を保つために、ヨハネを殺すという更に大きな罪を犯します。一つ目の記事の食卓は、罪の食卓です。二つ目の給食の記事(13節以下)も食卓です。しかしそれは、五千人(女子どもを入れたらもっと大勢)という大勢でありながら、パンと魚だけ(しかも神が奇跡をなさる前には、たった五つのパンと二匹の魚だけ)という貧しいものです。領主の祝いの席と野外での給食と、その豊かさにおいては雲泥の差があります。
 しかし決定的に異なるのは、領主の食卓・宴席が罪の象徴であるのに対して、五千人の給食は、神の恵みの象徴です。私達は、今のこの豊かな社会の中で、ヘロデの宴席をしてしまってはいないでしょうか。感謝と喜びをもって、たとえ貧しくても、本当は、神の国の宴席の先触れとしての豊かさのある、主イエスの食卓につく者でありましょう。

2020年8月23日「ナザレで」(マタイによる福音書13章51~58節)

 今日の聖書箇所は、明らかに二つの部分からなります。前半の、天の国のことを学んだ学者と、後半の、主イエスが故郷で受け入れられない話です。二回に分けて語ろうか迷いました。しかし今回は一回で語ります。
 まず前半をみましょう。今まで語られてきた天の国の例えの締めくくりです。51・52節です。学者とはこの場合、どういう意味でしょう。皆さんは学者というとどういうイメージをお持ちでしょうか。その分野について、素人の人よりも詳しく知っています。そして、自分の倉から新しいものと古いものを取り出します(一般に主イエスの新しい教えと旧約聖書ですが、それ以外にも様々な解釈ができます)。天の国の学者ですから、天の国(天国、神の支配)について知っているということでしょう。それは、単に知識として知っているのではなくて、今生きる自分の現実として神の支配を知っている、神の支配に生きる方が、(自分であれ他者であれ)人間の支配に生きるよりもはるかに自由で素晴らしいことを知っています。私達が神の支配を生きることの喜びを知り、それを伝える者となる、これが天の国の例えの締めくくりです。
 53節以下には、それとは正反対の主イエスの故郷の人々の姿が描かれています。彼らは、主イエスの教えに驚きます。しかし驚くだけで、信じません(58節、不信仰)。どこから(54、56節)と問うのならば、人間イエスにその源泉を求めるのではなくて(それは失敗します)、主イエスの宣教の言葉の中で、父なる神こそが彼らの「驚き」の源泉であることに気付くことが大切です。主イエスを通して神を信じることへと私達は招かれています。

2020年8月16日「天の国は」(マタイによる福音書13章44~50節)

 今日もまた、天の国の例えの続きです。種蒔きの例えも毒麦の例えも、そしてからし種とパン種の例えも、既にみました。例えというものには、説明的言語と異なり、決して汲み尽くすことのできない豊かさがあります。今日も三つの例えから、そのような豊かさの一部をみてみましょう。
 一つ目と二つ目の例えは、(からし種とパン種の時と同じように)似たような意味をもつ二つの例えだと言えます。44~46節です。これらの例えのポイントは、大切なもの(宝、高価な真珠)が見つかったならば、何にかえても(自分の持ち物を全て売り払ってでも)手に入れようとすることです。ここで、探し求めよとは、言われていません。なぜなら、一つ目の例えではたまたま見つけ、二つ目の例えでは一所懸命探しています。探すか探さないかは問題ではありません。ただ、見つかったならば、その大切さ・重要さ・かけがえのなさのゆえに、それ以外の物を全て捨ててでも手に入れようとすることが、ポイントです。もちろん、天の国が「所有」できるなどと言っているのではありません。天の国(天国、神の支配)は、神が支配なさるのですから、わたしたち人間は所有などできません。ただ「御国の子ら(所属する者ら)」として、天の国を生きるだけです。パウロは、フィリピ3章7・8節のように述べています。天の国を見つけた者は、そのようであるはずです。尤も私達は愚かですから、そう理屈通りにはいかないので、このように励まされているのですが。
 三つ目の例えは、網でする漁の例え、47~50節です。これは、毒麦の例えと似た例えです。幾つかの違いもありますが、違いに注目するよりは、今一度、意味をみましょう。最後の審判の比喩になっています。しかしそれだけをみればよいのではなくて、主イエスの十字架がそれを越えていく奇跡を指し示しています。天の国を生きましょう。

2020年8月9日「広がりゆく神の支配」(マタイによる福音書13章31~43節)

 前回は平和聖日で、毒麦の例えから、消極的平和をみました。前回申し上げましたように、種蒔きの例えと毒麦の例えとは、似た構造になっています。例えと例えの解説の間に別のものが挟まれています。今日の箇所は、短いながら、四つの部分からなります。第一と第二の部分は、天の国の二つの例えで、三番目に例えを用いる理由、そして最後に毒麦の例えの解説です。
 まず前回の振り返りと補足として毒麦の例えの解説をみます。今日の箇所で一番長い、最後の部分、36節以下です。振り返りとして、このように語られているにも係わらず、主イエスの十字架の出来事は、ここに描かれている現実を越えていくことです(前回の三つ目)。そして補足として、「畑は世界、良い種は御国の子ら」(38節)に注目しましょう。
 次に例えを用いて語る理由です。34・35節です。詩編78編2節です。預言者・旧約聖書の実現のためだというのです。以前に申し上げた、謎と例えを用いざるを得ない理由の他に、このことがあります。
 最後に、最初の二つの例えをみてみましょう。31~33節です。一つ目はからし種の例えです。天の国(天国、神の国、神の支配)は、からし種が小さな小さな一粒から、本当に大きく成長するように、広がりゆくものだということです。また二つ目も同じことを指し示しています。パン種が生地全体を膨らませるように、そのように神の支配は広がっていきます。これには、三つの場面があるでしょう。私達一人ひとり、教会、そして世界です。大切なことは、私達自身が、信仰の現実として、この主イエスの言葉を信じてイメージすることです。この豊かなイメージをもって、私達は教会形成を進めていきましょう。