これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年7月25日「この最も小さな者に」(マタイによる福音書25章31~46節)

 山上の説教に対応するようにして、この最後の説教、23~25章が語られてきました。今日の箇所で、それも終ります。次の26章から、いよいよ十字架へ向けての最後の歩みがはじまります。
 この最後の説教では、最後の審判、主イエスの再臨の時が描かれています。羊を右に山羊を左に分けます。31~33節です。そして右に分けられた者たちへの言葉が40節まで、左に分けられた者たちへの言葉が41節から最後です。
 右に分けられた者たちへの言葉で、まず注目すべきは、最初の34節です。山羊になってしまってはいけないから、羊になれるように気を付けてよい行いをしなさい、という勧めではありません。天地創造の時から用意されています。だから最も小さな者に様々なよいこと(食べさせたり飲ませたり)をするかしないかも既に天地創造の時から決まっていました。尤も改革派が語るような予定説は、その予定の中身を知らないわけですから、知らない私達にとっては、まだ未定のことのように行動してよいのだという点もあります。
 更に、この箇所で、右にいる人々は、「主よ、いつ…」と問います(37~39節)。そのような自覚はありません。正しい側、救われる側になろうとして無理な努力をするのではありません。本人さえ自覚しないようなよい行いを、主イエスはちゃんとみておられ、高く評価して下さいます。私達の小さなよい業の重さを主イエスは高く高く評価してくださいます。
 それでは、「最も小さな者」とは誰でしょうか。私達が普通にイメージするように、実際に困窮している方たちのことでしょう。しかしまた教会は、「これは私達キリスト者のことだ」という理解をもってきました(10章42節参照)。すべての国の民(32節)は、異邦人とも訳せます。信仰を生きる私達だけではなくて、そのような私達に小さなよいことをしてくださる人々もまた、神の国へと招かれています。さあ私達は最後の審判を畏れるのではなくて、待ち望んで生きましょう。

2021年7月18日「タラントンの例え」(マタイによる福音書25章14~30節)

 再臨・終末へ向けての三つの例えの、今日は三番目、最後です。一つ目が、「まだまだ来ない」と思い込んで犯す過ちを、二つ目が、「すぐに来る」と思い込んで犯す過ちを、諭していました。今日の例えは、文脈は離れて記憶されていることが多い例えです。実際ルカによる福音書の「ムナの例え」は全く違う文脈で語られています。
 それは、自分の財産を預けて旅行に出る主人の話です。14・15節です。「それぞれの力に応じて」であって、そこに差別や贔屓はありません。それぞれどうしたのでしょうか。16~18節です。まず注目すべきは、5タラントンと2タラントンの者が全く同じようにしていることです。主人の帰って来たときの扱いも全く一緒です。19~23節です。私達がこの世界でどのような才能や状況を神から与えられているとしても、私達の能力に応じて神は与えてくださっています。それを見失うところで、私達はひがんだりいじけたりして、自分の用いるべきタラントンを用いない罪を犯します。
 最後の1タラントンを任せられた僕が、もしかすると、そのような罪を犯しているのかもしれません。24~30節です。三人とも、預った額は異なっていても、「主人と一緒に喜んでくれ」という喜びへと招かれているはずでした。勿論、増やそうとして失敗した人物などもこの例えに出てくれば分かりやすくはなります。しかし恐らくは、私達が神から預けられたものの運用では失敗はないということでしょう。ただタラントン、神から預ったものを用いないで土に埋めてしまうという失敗だけがあります。
 この例えは、何を語っているのでしょう。確かに、私達が神から預ったものを土に埋めてしまってはならないという教えでもあるでしょう。しかしそれは、「そんなことをしていては外の暗闇に追い出されるから気を付けろ」という脅しではないでしょう。むしろ、天国へと・主人と一緒に喜ぶ世界へとあなたも招かれている、その招きに応えるように勧めています。それどころか、主イエスの十字架は、土に埋めるしかない私達の罪を赦して、5タラントンや2タラントンの僕のように、喜んで生きる世界への招きなのです。

2021年7月11日「十人の乙女」(マタイによる福音書25章1~13節)

 前回から、再臨・終末へ向けての三つの例えに入りました。前回はその一つ目で、忠実で賢い僕の話でした。悪い僕は、まだまだ主人は帰って来ないと思い込んで、悪事を行います。そして裁かれます。
 今日の例えでは、全く逆の事が起こっています。まず1節です。主イエスは、「天の国」の例えだと仰います。再臨・終末が来て、今はまだ不完全な形でしか到来していない神の国が完全に来ますから、こういう言い方になります。そして5人ずつ対照的な乙女たちがいます。2~4節です。普通に花婿が来れば、何の問題もありません。10人全員で花婿を迎えます。しかし花婿の到着が(事情は分かりませんが遅れます)。「再臨はまだまだ来ない」とタカをくくっていた悪い僕たちの時とは真逆に、なかなか来ません。この例えの方が主イエスの時代・そして初代教会の時代には、大切であったかもしれません。なぜなら、人々は、すぐにも再臨・終末が来ると期待していたからです。
 花婿が遅れて到着したとき、愚かな乙女たちばかりではなくて賢い乙女たちもみな居眠りしてしまっていました。ですから、「目を覚ましていなさい」(今日の聖書箇所では最後の13節)は、居眠りもしないで起きていなさいという意味ではありません。万一花婿が遅れた時に備えて、予備の油も用意しておくことです。
 では、予備の油とは何であり、これを備えておくとは何をすることでしょうか。古来様々なことが述べられてきました。なるほどという説もあれば、全く説得力のないものもあります。しかし確かなことは、終末・再臨がいつ来るか分からないのだから、備えておくことの大切さです。そしてそれは、私達人間の努力では恐らく不可能です。ただ、神の霊が私達に働いて、私達の内に生きてくださり、そのように導いてくださるから可能になるのではないでしょうか。聖霊の導きを求めて祈りましょう。

2021年7月4日「忠実で賢い僕」(マタイによる福音書24章45~51節)

 前回から、「突然に」終末・再臨が来るのだという文脈です。しかもそれは、誰にでも分かる仕方で(27・28節)来ます。更にその時は、父なる神のみがご存じで、子なる神、イエス・キリストでさえ知りません(36節)。ノアの洪水の時のように(37節~)人の子は思いがけない時にきます。
 これから三つの例えでその出来事を主イエスは語ります。そして最後には、羊と山羊とを分けるようになされる最後の裁きが語られます。
 今日は一つ目です。今日の例えでは、対照的な二人の僕が登場します。忠実で賢い僕と悪い僕です。どちらも主人が留守の間、僕たちを委ねられます。まず主イエスは問います。45節です。この問いには少し否定的なニュアンスがあるように感じます。例えばイスラエルの宗教的指導者たちは、神から神の民を預っていながら、その役目を果たすことはできませんでした。主イエスの「ウーアイ」という嘆き(23章)がそれを示していました。更に、教会はどうでしょうか。マタイ福音書記者には、そのことへの自戒の思いもあります。
 忠実で賢い僕はどのようであるのでしょうか。46・47節です。すべての財産の管理をゆだねられます。これは奴隷として売られたヨセフが思い起こされます。主人から信頼された僕は全財産の管理を任されます。悪い僕の場合は真逆です。48~51節です。主人はまだまだ帰って来ないだろうと勝手に思い込んで好き放題をして、見つかってしまいます。厳しく裁かれて泣きわめいて歯ぎしりしますが、後の祭りです。
 今は教会の時です。主イエスの十字架と復活の時と、終末・再臨の間の時を神は私達教会にゆだねておられます。神様からゆだねられていることを自覚しましょう。いつ主人が帰って来てもよいように(終末・再臨がきてもよいように)、目を覚まして備えていましょう。忠実で賢い僕とは、そのように備えて生きる僕です。

2021年6月27日「目を覚ましていなさい」(マタイによる福音書24章36~44節)

 前回、主が来られる予兆・終末の予兆について、まるで真逆の二つのことが語られているということを申し上げました。一つは前回のいちじくの木の教えです。予兆はあるのだから、きちんと見極めなさい、ということでした。いま一つは、「突然に」です。今回と次回は、そういう文脈です。
 まずとても大切な、私達がいつも心にとめておくべきことを主イエスは語ります。36節です。子なる神、主イエスでさえも知りません。ましてや、偽預言者や偽メシア(キリスト)が知るよしもありません。「いついつ終末が来る」という者は、全て偽物です。用心する必要があります。
 次にそれがノアの時と同じだと仰います。37~39節です。周りの人々は、ノアの造船をみて、小馬鹿にしていたかもしれません。こんな海もない所で船を造って、どうするんだ、と。そのとき、40・41節です。連れて行かれる者と残される者の違いは何でしょうか。それは、目を覚まして生きているかどうかです。最後の42~44節です。いつ再臨・終末が来ても大丈夫なように、用意しておくことです。物理的に目を覚ましている(目を覚ましつづけていることは不可能でしょう(ショートスリーパーと動物の話)。そうではなくて、畑で同じ仕事をしていても、同じように臼をひいていても、いつまでも同じ日々が続くのだと思い込まないで、再臨・終末に備えた生き方をしていることが大切です。それはどのようなものでしょう。それを主イエスは次回から、幾つも例えを重ねて語ります。私達は、人の子・主イエスが思いがけない時に来ることをわきまえた生き方を形作っていきましょう。

2021年6月20日「主の言葉は滅びない」(マタイによる福音書24章32~35節)

 前回は、人の子、主イエスが、誰にでも分かるような仕方で(稲妻やはげ鷹)来るのだという箇所でした。その予兆として、今まで描かれてきた終末以前の出来事が起こります。それを明確に語るのが、いちじくの木の例えです。32・33節です。
 主が来られる予兆について、まるで真逆の二つのことが語られています。一つは、今回の予兆としての様々なことが起こるというものです。そしていま一つは、次回から語られます「突然に」ということです。どちらも本当のことです。
 いちじくの木をみましょう。知っている人は、いちじくの木をみて、枝が柔らかくなり葉が伸びると、夏が近いことが分かります。しかし知らなければ、分かりません。終末以前の様々なことが起こっても、知らない人は慌てふためくばかりで、「ああ人の子(主イエス)は戸口に近づいておられるのだ」とは分かりません。あなたがたは、分からない者ではなくて、分かる者になりなさいと、主イエスは励ましておられます。
 人の子が戸口に近づいているとは、どういう意味でしょう。はっきりしているのは、終末・再臨が来るのだということです。そしてこれは、主イエスに従わない者にとっては裁きです。主イエスに従う私達には、救いのときです。なぜなら主イエスは、本当は滅びるしかない私達を救うために、これから十字架に死なれるからです。
 34・35節は、大切なことを主イエスが仰る時の言葉、アーメンです。まず34節です。終末以前の事柄の中で、滅びだと勘違いをして慌てるなということです。そして35節です。天地は滅びます。神によって造られた全てのものは(そして全てそうなのですが)、滅びます。しかしその中で、主イエスの言葉だけは決して滅びません。私達が信頼し唯一望みを掛けるのはこの主イエスの言葉にほかなりません。これは、主イエスの言葉が滅びないのだから、この言葉に信頼して望みをおいて生きる私達もまた滅びない、永遠の命が約束されているということです。さあ、主の言葉を携えて新しい一週間を歩みましょう。

2021年6月13日「人の子は来る」(マタイによる福音書24章15~31節)

 前回は、飢饉や戦争、地震などが起こるが、それは終末ではない。様々なことが起こった後で、終末が来る。最後に、「それから、終わりが来る(14節)」とありますように、まだ終りではなくて、「産みの苦しみの始まり」(8節)です。終わりよりも前の大切なこととして、全世界に福音が宣べ伝えられます。ここに希望があります。
 今日の聖書箇所は、更に終末が迫ってくる時のことが描かれています。最初の主題は、「逃げなさい」ということです。主イエス福音書の中で、迫害の予告もし、事実私達は迫害されてもなお信仰に踏みとどまることを覚悟しなければなりません。しかし同時に、逃げることが勧められています。15~22節です。しかも神は、私達選ばれた者たちが救われるように、期間を縮めて下さいます。
 そのときには偽メシアが現れまずが騙されないようにします(23~26節)。人の子、メシア、キリストは、単に「私がそうだ」と主張するのではなくて、再臨のときには、はっきり分かる仕方でおいでになるからです。27~31節です。稲妻とはげ鷹の例えは、誰からみても分かる、はっきりした仕方で、という意味です。ラッパがどういうものかなどと詮索してもあまり意味がないでしょう。科学的に捉えようとすると、混乱するだけです。そうではなくて、黙示文学的に描かれているのだと捉えるべきでしょう。そしてそのポイントは、キリスト者だけではなくて、すべての人に分かるような仕方で主イエスが来られる(すべての民族は…見る、30節)ことです。
 主イエスの十字架と復活から、既に二千年以上の歳月が経ちました。私達人間にとってはとても長い月日です。しかし神にとっては、一瞬と同じです(出エジプトの出来事を参照)。一人でも多くの人が滅びないで救われるように神は待ってくださっています。人の子が来るときを、楽しみに首を長くして待つと共に、今私達に託されている使命を果たしていきましょう。