これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年5月1日「奴隷に戻るな」(ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節)

 前回、私達はもはや奴隷ではない、子であり、神の相続人なのだという箇所でした。そのことは、私達の中に、「アッバ、父よ」と叫ぶキリストの霊が与えられていることから分かります。
 ところが、ガラテヤの人々は、割礼を受けたり律法を守ったりすることで、救いを完成しようとしている、これは奴隷に逆戻りすることだとパウロはいいます。まず、8節で、異邦人キリスト者がキリスト・福音と出会う以前を振り返ります。この前の箇所で論じたように、それは神ならざる神々に奴隷として仕える姿です。パウロの時代には、直接的に異教の神々を指しますが、私達においては、そのような異教の神々と共に、まるで神であるかのごとくに、自分に頼らせようとするあらゆるものを考えるべきでしょう。私達は、キリストと出会って、神にのみ頼ることを知ったのですから、もはやそれ以外の何者に対して絶対的な信頼をおいて頼ることは、もはやありません。
 9・10節です。「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」という表現は、そもそも信仰とは何かを理解する上で、とても大切なものです。私達は、「私が神を知った、私が神を信じた」と主張しがちです。そして信仰の道に入ったばかりのときはまだそれでもよいのです。しかし信仰生活が長くなりますと、「私が」ではなくて、「神が」であること(主体は私達ではなくて神)が分かってきます。
 パウロはなぜこんな議論をしているのでしょうか。何を目的にこの手紙を書いたのでしょう。11節です。パウロはガラテヤの教会の人々を心配しているのです。再び奴隷になってしまうならば、それはパウロが(そして彼の仲間が)苦労したことが無駄になってしまうことです。だからパウロは、ガラテヤの人々が奴隷に戻らないようにこの手紙を書いています。私達もあらゆる誘惑に抗して、自由な私達として生き、奴隷に戻らないようにしましょう。

2022年4月24日「アッバ、父よ」(ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節)

 今日は説教題を「アッバ、父よ」としました。しかしこれはこの箇所全体の中心となるメッセージではありません。この箇所でパウロが語りたいことは、あなたがたはもはや未成年や奴隷ではなくて、相続人だということです。
 まず1・2節です。日本では最近成人年齢が変わりました。しかし当時のローマでは、父親が期日を定めたようです。その期日までは、全財産の所有者であっても監督の下にあります。3節、私達も同じです。ユダヤ人が律法の下にいたように、異邦人は世を支配する諸霊に奴隷として仕えていたのだ、と、パウロはいいます。この諸霊とは、様々な諸宗教のことを指します。しかし現代のように神々をないがしろにする時代には、まるで神のように振る舞うすべてのものを指していると考えるとよいでしょう。お金、権力、権威、様々な事柄があります。
 4、5節です。また急に律法の話に戻ったようですが、ユダヤ人も異邦人も、養育係の下にあった(奴隷のような状態であった)という点では同じです。イエス・キリストが生まれて、私達を神の子となさいました。そしてそのことの証拠として、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子(キリスト・イエス)の霊を私達の心に送ってくださいました。私達の内に御子の霊があり、私達が「アッバ、父よ」と叫ぶ事ができることこそ、私達が既に神の子である証拠です。だから、7節です。私達は、子であり相続人です。だから私達は、「何か」の奴隷のように振る舞うべきではありません。自由な身分の者として、自由に神に呼びかけ、神に従うのです。

2022年4月17日「神に対して生きる」(ローマの信徒への手紙6章3~11節)

 イースター、おめでとうございます。
 今年は、ウクライナミャンマー、また新型コロナは未だにおさまらず、素直に復活を喜び祝うことができるかんじではありません。しかしながら復活の喜びは、どんな危急の時、困難な時も喜ぶことのできる特別な喜びであることを、今日の聖書箇所から今一度確認しましょう。今日は、イースターですから、普段の講解説教を一回お休みして、聖書日課で指定されているローマです。
 今日の聖書箇所は、「それとも」ではじまっています。3節です。これは、罪が大きいほど恵みも大きいというパウロの意見に対して、それならば、罪の中にとどまるほうが良いのではないかと、ねじくれた意見を言う人々がいました。パウロは、決してそうではないと否定します。なぜなら、私達はもはや罪の中に生きることはできないからです。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたのであるならば、それは、キリストの死にあずかるためでもありました。
 4・5節です。洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストの死にあずかる者となりました。それは、キリストの復活と同じく、私達も新しい命に生きるためです。私達は復活の姿にあやかります。
 私達は、罪に対して死んでいて、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きています(11節)。私達はこの地上における死を恐れる必要はありません。たとえ地上において死ぬとしても、その死を越えて、私達はキリストと共に、神に対して生きるからです。それでは神に対して生きるとはどういう生き方でしょうか。(今日の聖書箇所を越えてしまいますが)、自分の体を罪に支配させず、神に献げる生き方です。この手紙では、12章以降にそのことが丁寧に描かれています。困難な世界で、私達は復活のキリストと共に、この世界での命だけを奪うことのできるまがまがしい力とそれぞれの仕方で戦っていきましょう。

2022年4月10日「キリストを着て」(ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節)

 今日の聖書箇所、特に28節前半は、この手紙の中でも一番よく知られた箇所ではないでしょうか。28節をみましょう。まず様々な違いがない(ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由な身分の者、男と女)ことの根拠は、キリスト・イエスにおいて一つだからです。キリストにおいて一つであることの前には、あらゆる違いはなくなります。意味を失います。その文脈は、まず、私達は神の子です。26節です。それは、信仰によって、キリスト・イエスにあって、のことです。「信仰によって」ですから、前回の文脈で申しますと、もはや養育係の下にはありません。キリストに結ばれて、私達は自由な神の子です。27節です。それは、洗礼を受けることによって起こります。キリストを着るから、私達は一つであり、差別はなくなります。
 20節のように、アブラハムの子孫、約束による相続人です。もはや律法とか、ユダヤ人とかいうことをこえて、私達は相続人です。
 しかし幾つかの問題があります。まず第一に、それにもかかわらず、差別・違いがあります。差別をなさる方々がよくいうのは、「これは差別ではない、区別だ」というものです。奴隷制度を振り返るだけでも、多くの差別が、ただ人間の罪によって存在するだけであること、本質的なものではないことが分かります。男女差別もそうです。多くの男女の間の根本的な差異だと思われていたものが、実は単なる思い込みであって、本質ではないことが分かっています。人類の歴史は、人間の罪の結果として存在する差別をなくしていく戦いの歴史でした。
 しかしそれでは第二に、まだ差別があるこの社会で、私達はどう振る舞えばよいのでしょうか。すべての差別をここでパウロが語っている本源的な平等によって、捨象することはできません。もしそうすれば、現実離れした理想主義者とみなされるでしょう。罪の現実世界と神の理想との間で、私達はこの世界を少しでもよくしていくために自分ができることを誠実にしていきます。これが私達キリスト者の使命です。

2022年4月3日「養育係」(ガラテヤの信徒への手紙3章21~25節)

 「養育係」というのは、私達の文化にはあまりなじみがないので、分かりにくいかもしれません。パウロは前回までの箇所で、律法ではなくて約束によって、ということを丁寧に述べてきました。そうすると、当然出てくる疑問として、では律法とは何の意味があるのかという問いがあります。前回19節から、「律法とはいったい何か」という問いにパウロは答えようとしました。それは、キリストまでの間、私達人間の違反を明らかにするためでした。
 そうなりますと、そもそも律法は神の約束に反するのか、という問いが起こります。21節です。真面目なユダヤ人、以前パウロもそうであったようなユダヤ人は、律法を守ること・行うことによって、義とされる、と、信じていました。しかしパウロはキリストと出会って、それは誤りであって、人を生かすことができる律法は与えられていないと自覚します。それゆえ、22節です。ただ罪の支配下に閉じ込めただけだとすると、それはずいぶんひどい話です。が、決してそうではなくて、神の約束が与えられるため、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるためでした。
 すると、律法とは何なのか。まず、信仰が現れる前、23節です。私達を監視し、閉じ込める存在として律法があります。まさに、罪の支配下に閉じ込めています。これをパウロは「養育係」と表現します。24節ですね。養育係というは、奴隷の仕事で、自由人の子どもが大きくなるまで、責任をもって育てます。そこでは、体罰もあります。自由人の子どもが成長して、まっとうな大人になるのを助けるために、子どもである間、必要な躾け、教育をします。しかしそれは、「私達が信仰によって義とされるため」です。
 キリストへの信仰が現れたので、もはや、私達は養育係の下にはいません。25節です。私達は、律法と係わりの深い文化ではないので、少し分かりづらいかもしれません。しかし、この世界の様々な「常識」や「同調圧力」はもはや、私達には直接関係のあるものではなくなりました。キリストにおいて与えられた、この私達の自由をきちんと生き抜きましょう。

2022年3月27日「ただ約束によって」(ガラテヤの信徒への手紙3章15~20節)

 パウロはまず、分かりやすく説明すると申します。15節前半ですね。しかし私達からみて、ここのパウロの説明が分かりやすいかどうかは、微妙なところです。まずパウロは、世俗の遺言(元のギリシャ語で遺言と約束・契約は同じ言葉)の話をします。15節後半です。
 そして16節で、パウロは「子孫」とは(単数形なので)多くの子孫のことではなくて、ただキリストお一人を指すといいます。そして19節の「あの子孫」に繋がります。パウロが17節から論じているのは、約束よりも430年後(当時の数え方です)に与えられた律法が、神の恵みの約束を無効にすることはありえないということです。17~20節です。人間の遺言が後から他の人によって変えられないように、アブラハムに与えられた神の恵みの約束は、律法によって無効になることはない。そうなると、律法の意義もまた新しく定義されなければならなくなります。19節後半です。ポイントは二つあります。まず第一に、キリストまでの間、人間の違反を明らかにするために律法はあるのだといいます。今一つのポイントは、アブラハムへの約束と異なり、律法は、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたことです。この箇所の解釈は幾つかあるのですが、大切なことは、最初の約束、神の「信仰によって義とする」という恵みの約束が、神から直接与えられたのに対して、律法は間接的なものだということです。
 パウロは、ここでも信仰と律法を対比して、あなたは信仰によって生きるのか、律法によって生きるのかと迫るのです。「律法」といいますと、私達には関係がないかのようですが、この世界で、私達に対して「こうあるべきだ」と迫ってくるすべてのものを私達は信仰のゆえに拒むことができます。

2022年1月16日「誰がアブラハムの子か」(ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節)

 今日の聖書箇所は、前回最後の6節からきています。アブラハムは神を信じた、そのことで彼は義と認められました。するとどうなるのか。
 7節です。誰がアブラハムの子かということが問題になっています。もともとヘブライ語の「子」は様々な意味があります(例えば光の子、など)。ここでは、子孫、後を継ぐ者という意味でしょう。当時多くのユダヤ人にとっては、自分たちは血縁においてアブラハムの子孫だという誇りがありました。それに対して、パウロはいいます。8節は、旧約聖書から引用して(創世記12・3、18・18)、血筋ではなくて、信仰こそがアブラハムの子の要件だと語ります。9節のように、信仰こそが、私達信じる者をアブラハムの子とします。
 10~12節で、律法、律法の呪いについてパウロは語ります。まず10節では律法を行う者は、律法を全て行う責任があるのだといいます(旧約聖書申命記27章26節を引用して)。だからみな、呪われています。律法によっては誰も神の御前で義とされません(11節)。
 そして13節です。木にかけられて、キリストは私達のために呪いとなってくださいました。そのようにして、私達は、律法の呪いから贖い出されました。その目的は、14節です。アブラハムの祝福は、ユダヤ人にのみとどまるものではなくて、キリストにおいて私達異邦人に及びます。更に、信仰によって、神の「霊」を受けることになります。もしも、信仰によってはじめた信仰生活を律法によって完成しようとするならば、それは信仰において与えられた霊の恵みを台無しにしてしまうことになります。ただ、信仰によって、恵みによって、歩みましょう。