これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年9月10日「何か見えるか」マルコによる福音書8章22~26節

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 今日の箇所は盲人の癒しです。旧約聖書、イスラエルの伝統において、盲人の癒しは、終末のしるしです。ですから、この箇所が表現しているのは、主イエスがいらしたことによって終りの時が既にはじまっているのだということです。
 今日の箇所について、三つのことだけを申し上げましょう。まず第一に、前回との関連です。前回は弟子たちに対して主イエスが「まだ悟らないのか」と仰ることで終わっていました。どうすれば、主イエスと寝起きを共にしている弟子たちでさえ悟り得なかったことを悟ることができるのか。ただ主イエスが、神が、目を開いてくださるより他にありません。この盲人は、主イエスが癒して下さることで、見えるようになります。弟子たちも、また、私達も、自分の力で見えるようになるのではなくて、ただ主がそうして下さることによってそうなります。第二に、この癒しだけが二段階です。23~25節。そのことが、主イエスが一度では癒せないように見えるということで、マタイやルカがこのエピソードを採用しなかった理由だとも考えられます。しかしマルコは、二段階で癒されるこの盲人によって、弟子たちもまた、二段階(次回のキリスト告白の段階と、主イエスの十字架と復活の後)が必要だと象徴的に表現しています。私達の信仰もまた、そうなのではないでしょうか。二段階どころか、繰り返し、新しく聖霊の働きによって、主イエスから教えられて、私達の信仰は育っていきます。そこで大切なことは、私達の努力や成果ではなくて、主イエスがして下さっているという事実です。第三に、沈黙命令のモティーフが今まで以上に厳格になされていることです。26節。私達もまた、主イエスから、「何か見えるか」といつも問われています。その問いに正直に答える中で、更に主イエスが手を当てて更に見えるようにして下さる現実を喜びましょう。