これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年7月14日「最初の弟子たち」(マタイによる福音書4章18~25節)

 

 前回は宣教開始でした。今日の箇所から具体的にその内容が記されていきます。今日の箇所は、前半と後半の二つに大きく分かれています。「最初の弟子たち」(今日の説教題)は、厳密にいうと、前半だけのことです。しかしこの前半と後半とが密接に結びついており、全体にこの説教題をつけることができるのも事実です。
 まず前半をみましょう。18~22節。他の福音書と比べてみますと、マタイでは簡単に記されています。その目的を二つ申しましょう。まず第一に、主イエスの召命、招き、召しが、その本質において、とても単純であることを(他の福音書よりも更に明確に)示すためです。二番目に、二組の兄弟の差異を省くことによって、やはり、召命の本質にのみ目を向けさせます。人間をとる漁師になること。これは魚をとる漁師とは全く逆に、新しい命に生かします。実はこの箇所に(後で付けた表題を除いては)弟子という言葉はでてきません。従うという言葉だけです。ここから分かることは、主イエスの弟子になるとは、従うことであり、自分だけの救いなどということではなくて、漁師・伝道者になることです。確かに牧師や神父のように献身者はおりますが、本質的にはキリスト者になる、主イエスの弟子になるとは、主イエスの後に従って生きることです。これは、最初の弟子たちも、今のところ最後の弟子たちである私たちも同じです。このことが分からないと、自分の信仰もはっきりしません。
 後半は、23~25節。これは、9章の最後の箇所と共に枠構造になっています。この箇所で最も注目したいのは、最後の「従った」です。群衆も弟子たちと同様に従います。ここに信仰があります。