これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年7月28日「迫害の喜び」(マタイによる福音書5章1~12節)

 前回大まかに「山上の祝福」の全体をみました。今日は最後の迫害の話に集中しましょう。10節。まず注目すべきは、3節との関連です。後半が同じです。それだから、3節と10節は同じ中身だという方もおられます。しかし、(確かに山上の祝福全体が同じ人物--主イエス・キリスト、そしてその御後に従う私たちを指しているのは事実ですが)、3節が神との関わりにおける、貧しさ・乏しさ(とその自覚)を指しているのに対して、10節は、この神の義のために迫害されることです。どちらも天の国(神の支配、永遠の命)を与えられることは同じです。また神との関係の貧しさは、神の義に飢え渇くことになり(6節)、それゆえに、迫害に繋がるかもしれませんが、それ自体は異なる事柄でしょう。しかもこの最後の祝福は、更に2節も言葉が紡がれています。11・12節。今まで、「その人たちは」と三人称で語られてきたものが、ここで「あなたがたは」と二人称になります。「自分は…だろうか」と考えるよりも前に、「これはあなた(がた)自身のことだ」と迫られます。主イエスから福音を聞き、この福音を無視して、なかったように生きるのではなくて、この福音に生きようとするときに、それは迫害されることになります(今日の説教題に関して)。なぜなら、神の言葉・福音・神の義は、それ自体力をもって迫ってくるものだからです。毒にも薬にもならないコトバであれば、だれも反発して迫害などしません。本当に現実を変えていく力があるから、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」のです。そのとき、私たちは嘆き悲しむのではなくて、大いに喜ぶべきです。この世的・人間的には異常なことです。しかし神の国を視野に入れるとき、それは喜びとなります。