これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年9月29日「神は報いられる」(マタイによる福音書6章1~4節)

 前回まで幾つもの反対命題でありました。私達が、この世界でキリスト者として生き続けることができるように、厳しくも福音である大きな問いの前に立たされました。今日から、新しい単元に入ります。18節までで、三つの徳・三つの義について教えておられます。施し・祈り・断食です。当時のユダヤでは、この三つの事柄こそが、神の民として大切に行うべき事柄でした。1節は、全体の表題です。善行は善行です。よくキリスト教は御利益宗教ではないから、報いを求めるべきではないという議論がなされます。しかし、本当の報い、消えることのない報い、尊い報いを神様から頂くために、この世界でヒトから与えられる報いを重んじないことが大切であって、報いそのものを主イエスは否定なさいません。
 まず、施しです。2節。このラッパを吹き鳴らすというのは、大げさに見せびらかすことの比喩と読むこともできます。が、当時、実際にそういう風習があったようです。本人が喜べるように、また周りの人々にもそのような施すという気持ちが起こるようにということでしょう。しかし主イエスは仰います(しかも「はっきり」)、既に報いを受けているから、神からの報いは期待できないのだと。隠れたところで、人に知られないように行わなければ、神は報いてくださらない、報いは残っていない。
 最後、3・4節。3節は、様々な読み方がされてきました。物理的には不可能なことだからです。恐らく、自分が行う施しを善行だと意識しないほどに自然に行うということです。神は、隠れたことを見ておられます、善いことも悪いことも全て。私達が施しをはじめとする善行を行い、その報いがあるはずだ、なければ不満だと感じるとき、私達はまだ報いを受けたがる思いから自由になっていません。そういう浅ましい思いから私達が解き放たれて、神の子として生きることができるように、主イエスは十字架に死んでくださったのです。