これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年12月29日「岩を土台に」(マタイによる福音書7章24~29節)

 今日は今年最後の礼拝です。そしてまたそのように意図したわけではありませんが、山上の説教の最後でもあります。次回(新年最初の礼拝)から、主イエスの救いの行ないに関する、8章からの箇所を今まで同様丁寧に読んでいきます。
 既に7章全体が纏めの箇所だともいえるのですが、その一番最後に主イエスは大切なこととして何を語るのでしょうか。24~27節。とても有名なたとえ話です。以前休暇中に海外の教会の礼拝に参加した時に、この箇所の模型を使って、子どもたちに、岩の上に建てることの大切さを教えていました。また私自身、横須賀と名古屋の体験を通して、現実の建物で岩の上に建てることを目の当たりにしました。岩の上に建てても、砂の上に建てても、平時は変わりません。建てる時に費用が余分にかかるので、わざわざ岩の所まで掘り進めて土台にする(ルカ福音書の平行箇所参照)のは、無駄なことのようにも見えます。しかし、二重の意味での川の氾濫、強い風があります。一人ひとりの人生におけるそれは、あるいはない方もおられるかもしれません。しかし二つ目の終末論的な意味での氾濫(ノアの洪水から、それは水よりも火のイメージがありますけれども)は、誰にでも必ずやってきます。再臨・終末の時に裁きの座に立たない者は誰もいません。そのときに、弁護者として主イエスが立って下さるかどうか、そこにかかっています(前回の箇所を参照)。だからこそ、岩の上に土台を置くことの大切さがあります。ではそれは、具体的にはどうすることなのでしょうか。この山上の説教で今まで教えられた生き方を実際に自分が生きることです。山上の説教の教えを憧れや諦めで捉える(それが聞いても行わないありかた、むしろ本当は聞いてもいないありかたでしょう)のではなくて、実際に自分が生きるのです。最後の箇所に、主イエスの話を聞いた人々の驚きが描かれます。28~29節。私達の力、私達の栄光、私達の某かでそれをするのではなくて、ただこの主イエスの権威によってのみ(私達はひたすら三一なる神に頼ることによってのみ)このようなキリスト者としての生き方が形作られていきます。