これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年11月13日「互いに仕えなさい」(エフェソの信徒への手紙5章~21節)

 5章に入りまして、今日で4回目です。1回目は、愛によって歩むことでした。2回目は「光の子として歩む」ことでした。そして3回目、先週は、神に感謝して生きることでした。こうして、一連の勧告が終りました。次回から6章にかけて、妻と夫、子と親、奴隷と主人という仕方で、もっと具体的な人間関係における教えに入っていきます。今日は、本来ですと、「妻と夫」ですが、召天者記念礼拝ですので、21節だけを取り上げまして、少し丁寧にみてみましょう。この「妻と夫」の箇所はかつてはよく結婚式で読まれましたが、この箇所だけを読むと誤解をうみやすいからでしょうか、近年は滅多に読まれなくなりました。これらの具体的な戒めの最初に、21節があります。
 まず、「キリストに対する恐れをもって」です。この恐れはいわゆる恐怖ではありません。神(および神の使い)の臨在のしるしとして、「恐れることはない」という言葉があります(マリアの受胎告知や羊飼いたち、また旧約聖書にも多数)。「恐れる」ことは、神がどのような方であられるのかを考えれば、私達人間にとって自然なことです。神は、私達人間をはるかに超越した方なのですから。
 そしてこの箇所でも、そのような、恐れ敬うという意味で、キリストに対する恐れが語られています。私達人間同士の「仕える」(これは決して一方向のものではなくて、双方向です)場合にも、神・キリストを抜きにした「仕える」ではなくて、「キリストに対する恐れをもって」のことなのです。
 そこには常に、キリストの模範があります。キリスト・イエスは神の子であられながら、そのことに固執することなく、私達の救いのためにご自身を献げてくださいました。だから私達は、信仰の先達方を思う時に、もはや滅びて消え去った存在としてではなくて、神の救いに先に入れられたのだという確信をもって、思い起こすことができます。互いに仕えることは、私達の主キリストにならうことです。