先週、主イエスのもとに洗礼者ヨハネの弟子たちが「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねにきました。前回、彼らに対する主イエスの答えがありました。今日はヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスが群衆に語った言葉の前半です。多くの人々が、悔い改…
先週主イエスは、弟子たちを派遣するにあたっての言葉を終えられました。今日は新しい展開、洗礼者ヨハネです。ヨハネが自分の弟子たちを獄中から主イエスのもとに派遣します。2・3節です。なぜ主イエスが洗礼を授けて欲しいと願った時には、「私にはその…
先週私達はイースターにあたって、命を得る生き方について学びました。今日はその続きとして、そのような生き方をする私達を受け入れる人の報いについてです。そしてまた、主イエスが十二人の弟子たちを送るにあたっての言葉の締めくくりでもあります。 まず…
イースターおめでとうございます。 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、ただ神のみを恐れることが教えられていました。そこでは、神以外の全てを恐れない生き方があります。 今日はその続きとして、命…
現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、狼の群れに送り込まれる羊のように、迫害があるのだという箇所でした。その迫害の現実の中で、最初の24・25節では、主イエスをベルゼブルというような人々は、…
前回から10章に入りました。今日は、前回の続き、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉です。特に印象深いのは、最初の16節でしょう。一つは、狼の群れに送り込まれる羊のたとえです。今一つは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」…
今日から10章になります。前回(9章の最後)は、橋渡しの箇所でもありました。最後に、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う(祈る)べきことが語られていました。そう語られた主イエスは、働き手として用いるためなのでしょうか、…
今日で9章が終ります。この箇所は8・9章の全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所です。最初の35節は、主イエスの活動の要所にマタイが書く言葉です(4章の最後参照)。そして主イエスが群衆を憐れまれる姿を描きます。[36節]この群衆がどんな…
次回で9章が終るのですけれども、次回の箇所は全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所ですから、主イエスの奇跡や癒しを中心とする行動は、今日の箇所で締めくくりとなります。前半では、二人の盲人が癒されています。【27~31節】ここには、典型的…
前回は、なぜ主イエスとその弟子たちが断食をしないのかという問いに答えるものでした。婚宴のような場では断食をしません。主イエスという花婿がおられるので、私たちの群れは喜びの群れであって、断食はありません。 しかしそれに続いて描かれるのは、二人…
前回、主イエスは弟子たちばかりでなく、罪人や徴税人と共に食事をしていました。そして、ファリサイ派の人々の疑問に答える仕方で、自分が誰を招くために来たのか、語られました。今日の聖書箇所最初の「そのころ(そのとき)」は、この食事の席のことでし…
前回は、中風の人の記事を通して、罪を赦す権威をみました。主イエスはその場所をたち、マタイに声を掛けます。9節。マルコやルカでは、レビです。なぜ名前が異なるのでしょうか。二つの可能性(二つの名前の同一人物、出来事が別々にあった)は蓋然性が低…
今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方から帰ってきまして、最初の出来事です。有名な、中風の人の記事です。しかしマルコやルカと異なり、屋根に穴を開けるエピソードは省かれています。…
今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方です。その前、湖での嵐からも私達は様々なことを学びました。今日の箇所では、説教題を「かまわないでくれ」としました。もちろん、29節からです…
今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、前回の箇所とまとめて読むべきだという意見もあります。前回、主イエスの弟子として生きることの覚悟が、二つの問答から教えられていました。主イエスは枕する所も…
今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、主イエスがそういう何かを行う場面ではなくて、二つの問答が記されています。まず、そのきっかけともなる主イエスの命令をみましょう。18節。主イエスはここでは…
前回から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。5~7章の山上の説教と異なり、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。それでは、福音としての意味は今までよりも薄いのかといえば、決してそんなことは…
今日から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいきます。この箇所には、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。先ほどお読みいただきましたように今日の箇所では二人の人物が癒されています。重い皮膚病の人物…
今日は今年最後の礼拝です。そしてまたそのように意図したわけではありませんが、山上の説教の最後でもあります。次回(新年最初の礼拝)から、主イエスの救いの行ないに関する、8章からの箇所を今まで同様丁寧に読んでいきます。 既に7章全体が纏めの箇所…
https://www.dropbox.com/s/?dl=0 クリスマスおめでとうございます。 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、前回と今日クリスマス礼拝では、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、占星術の学者たち(今回の新しい翻訳では東…
あと少しで山上の説教が終るのですけれども、今回と次回は、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、主イエスの誕生の場面、次回は占星術の学者たちの記事です。 この記事から語るべきこと、お伝えすべきことはたくさんあるかと思い…
前回までにこの山上の説教で主イエスは、主イエスの御後に従っていく弟子たち、私達キリスト者の生き方を教えてくださいました。その最後にあたって、まず私達は求める(祈る)ことの大切さ、そして多くの人が見落として気が付きもしない狭い門から入ること…
前回、求めることの大切さが教えられました。キリスト者として主イエスの後に従うのはどのような生き方であるかが今まで示されてきましたけれども、私達はなかなかそのように生きることができません。だからこそ、神様ご自身に対して、祈りの内に私達がその…
山上の説教も終盤に入ってきましたが、今日もまた、とても有名な箇所です。 7・ 8節。「求めよ、探せ、門をたたけ」。まず問題になるのは、これが何についての言葉なのかということです。私達の欲望に関するものでないことは明らかです。ここで、何よりもま…
前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日…
前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日…
前回は、神への眼差しに生きる、私達が神と神でない何かに同時に仕えるのではなくて、まっすぐに単純に神に仕える生き方を選びとることが求められていました。今日はそのような生き方の特長である、思い悩まないことについて、です。多くの方が仰るのは、信…
施し、祈り、断食についての言葉が終わり、次の単元です。新共同訳聖書の表題が三つありますように、三つそれぞれをみていくこともできますが、今回はマタイ福音書記者がこのように並べた意図(ルカと比べると、マタイが一カ所に集めたことがよく分かります…
施し、祈り、断食、主イエスは当時善行とされたこの三つのことについて語ります。今日は三つ目の断食です。しかし今までの二つ、施し、祈りに比べて、私達キリスト教会にとって、この「断食」は、少し遠い感じがするのではないでしょうか。勿論、キリスト教…
主イエスは主の祈りを教えます。前半の部分では、神・天に関する祈りでした(もっとも実はそれ自体が私達の地上の生活と深く関わっていますが)。今日は後半、私達人間・地上のことで、三つの祈りからなります。糧を求める祈り、負い目を赦してくださいとい…